昭和四十三年十一月十三日                 


 十三日会に於ける御理解                  

 植樹、造園の事についての皆さんに、お話がございましたが、私いま、そこで聞かせて頂きよるときに、頂きます事が「悦びを創る」と言う事を頂きました。「悦びを創る」悦びという字は「えつ」というね、創るという字は「ぞう」という、悦びを創ると、信心は悦びを創る稽古だと私は思うのです。
 信心は悦びを創っていく稽古なんですよ、ですから、喜ぼうとして喜ばれない、自分が喜びたいなあ-と思っても喜べない、けれども、そこに喜びを創ることの努力がなされるときに、与えられるのが喜びである、どうぞ、そう言う意味で今度の植樹の、又は…もう植樹と言う事はそのまま造園と言う事になりましょう・
 今も申しておりましたように、もう二度と扱わない様にというのでございますから、何事でも一つの時期というのがございます。機が熟するというのがございますがね、機が熟すると言う事、そこのチャンスを掴かんでお互いが、そのことをなさしてもらうところに、スム-ズなお陰が頂ける、
 この度の植樹の、思い立たれるということについて、もう本当に神乍らなおかげを頂いております。そう言う話のある一寸前でしたが、長寿園という、あの、それから内山さんと言うのは、もう、この辺きっての大きな植木屋さんでありますが、長寿園の大将と、もう、はからずもお会いをし、そして一緒にお神酒を頂いたり、お食事をしたりする機会に恵まれ、たまたまこう、お話をさせて頂いておりましたら、私の方の支配人が私の?なりにおります。寺島という人間でこうこうだと話される。
 よく話を聞きよりましたら、私の草野におりました時分の村友達でございました。北京でも、北京にも永くその人行っておったので、北京でもお付合いしておったと、もう終戦この方、引き揚げてこの方、バスの中で一、二回ちょっと会っただけで、何処で何をしておるかと言う事すら知らなかったのでございますが、お宅に居るのですか、と…
 私の代わりに支配人をやっておりますと言う様な話からです。とに角ぜひ一辺お出かけ下さいと言う様な事で、先日から参りました。
 今の秋永先生、それから他の二、三の方達と一緒に参りましたんですけれども、もう、それこそ大変な、やはり耳納山の中腹から、づう-と、もう植木園がございます。
 そこで、その、こう言う様なものを植えたい、こういう様なものを、と言うような、そのものを全部ひらい出しましてね、そして、その、ま、帰って参りました。それから内山さんにも、その又、話がしてあったから、ぜひ行きたいというような事で、ま、今のお話のように行かれたんですけども、ま、今の通り、実にタイミングよう日頃は居られないはずの社長が、たまたま帰って来ておられて、しかも大変な意欲を見せて下さる、
 昨日も、こちらに見えて、いわゆる、ま、内山緑樹と言えば日本一だそうでございますが、その、日本一の内山緑樹の面目にかけてここは、いわゆる看板になるところだと、さから、もう、まあいうなら金の事は言わんでですね、儲けとか利益の事は言わんで一つ、まあ一生懸命力を入れさせて頂こうと、けれども、ここには、その植木は献木があるという、手は、ご信者さん方の奉仕がある、だから、私の、いわゆる内山緑樹の、技術と、そして足りない所は又自分の農園の所から持って来る、と言う様に昨日大変そう言う、まあ、結構なお話を聞かせて頂いたんですが、けれどもその献木の方は、いわゆるあの長寿園の方から頂く事になる、
 それからその造園植樹の事をして下さるのは、内山さん、それを奉仕させて頂くのは私共だ、…ね、そこでまあ、いうなら、この広い所をずう-と、こう生垣が出来ますとね、生垣その一本一本の上にもです、皆んなの思いと真心がこもらなければならない。
 そこで皆さんが、それをおかげ頂かれる、献木をされる訳なんです。ね、ですから、あの、どうぞ、お金を今、払っておく事はいらんと私は思うんです。
 昨日、あの秋永先生が言っとりましたが、お金なしに始めるとでございますから、と言ったら、そのお金なんか問題にしない。と言う様な事まで言うて、もう初めから言う事をズバリと言うて、かか
って頂く訳でございますから、ずいぶん中には高い植木もございます。
 ね、それですから、例えば、こう言う木を5本、こう言う木を10本、と言う様に自分の、その、お陰を頂きたいという、その、木の種類と云うか、ね、それを、ま、係の所に申し出て頂けば、それでいいんじゃないかと思うんです。
 ね、そして、それが、植えとるとです、青々と生き生きとして、この庭にですね、それが、ま、合楽の御広前、この御建築にふさわしい植樹造園が出来た暁にです、私共が本当に、まあ見事になったと内外共に、すばらしいと言う様なおかげを頂きたい、ね
 そこにですね、私は喜びを頂ける元が生まれてくるとこう思うんです。これはね、誰がお供えをしなくても、誰がどうであっても、神様が思い立ちなさったら、以上必ず出来るのです。
 例えば10万なら10万円で思い立ちなさったら、これは絶対10万円集まるのです。ね、ですからその10万円なら10万円の中に、100万円なら100万円の中に私がどれだけお陰を頂いたかと言う事が問題なんです。
 私がその1割を、お陰を、占めたか、2割を占めたか、そこに私共のですね、いわゆる信心が、これはね、誰がお供えしなくても、誰が弾まなくても、これだけの事は必ず出来るんです。
 ね、これが、しかもこう例えて言うならば、なら、日々のお初穂でもそうです。ね、毎日5万円なら5万円という、お初穂の水揚げがある、皆さんが、お初穂なさっておられる、その、お初穂が5万円づつになるんです、だから、中には1万円も、お供えなさっておられる方がありますけれども、その方が例えば止めたところでです、誰かが、この1万円を持ってくるんです。
 この人は間違いがないんです、ね、してみると神様が思い立ちなさったところの日々のなら5万円なら5万円は、どうでもここに集めると神様が思い立ちなさったらです、誰がお供えしなくても誰かが持ってくるんせす。
 例えば、お供えでも、そうでしょうが、度々同じもんの様でしょうが、ね、けれどもですね、それは結局これだけは、どうでも神様が集めなさる物なんなんだ、それけん、誰がお供えしてなかったろうと言うて、それだけは集まるんです。
 ですから神様の働きの中に、私共がどれだけ割り込んで行けるか、と言う事なんだ信心は、…それが喜びの種になる、材料になる、この御造営が例えば1億円かかったと、ま言われております。その1億円の中に一信者として私がどれだけ、お陰を受けたかと言う事が、貴方がたの喜びの元になるんですよ。
 ね、なら俺も毎日これだけのお供えしよったばってん、もう止めたと言うてもいいんです。決して神様の方には狂いはないのですから、… Aがお供えしなかったらBが必ずお供えする事になってるんです。
 ね、ですからその御造営、御造園又は植樹という様な場合であっても、100本と神様が決めなったら100本だけは、どうでも集めなさるんですよ。
 これは皆さんがここで稽古をさしておられてです、それを私が、いろんな事いちいち分らぬ事であろうと、こう思うのですが、その100本の植樹の中に、私は一生懸命の思いで3本お陰を頂いた、10本お陰頂いた、それが、貴方がたの信心であり、それが貴方がたの喜びを創る事の元になるのです。
 ね、それをね喜びを御造営とか御造園と言うだけではありませんよ、けれども、ここに神様がね発案なさる、神様が立ちあがりなさる、神様が立ちあがってござるだろうなあと思われる様なです、いうならば、初鳴きをです、今度の造園の場合も感じます。今度の植樹の場合も感じます。
 これは神様がやっぱり先頭に立ってござるなあと、言う感じでございます。ね、そこで、んなら、それからと言うて、これは信徒会以外の方達に言えるべきにはできません。だから皆さんのご信者さん方には、もう徹頭徹尾ええいつもすみません、この事を徹底させて頂いて、その中から皆さんの真心を結集してとこう言うけれども、その中に皆さんの真心がどれだけ占め得るかと言う事をです、私は楽しみにしとります。
 本当にそうです、ね、ある方が、こうして工事?の際には月次祭をなさいますでしょう。先日忘れておられた、霊祭から引き続いてからあったから、ね、ところが、ちゃんと他んところがやっぱ工事?しとるということです。
 だから、これをお供えしょうと、神様が神前に供えようと神様が思いなさったら、どうでもこれは集まって来るんだと言う事を皆さんは知って頂きたいと思う。
 それは、どう言う事かと言うと、そう言う神様の間違いない、営みがです、私共の一人一人の営みの上にも現れておると言う事なのです。
 神様の、そう言う様な働きがです、私共一人一人の上にも、一家一家の上にもです、そう言う間違いの無い働きは頂けておるんだと言う事です。
 神恩報謝の思いが例えば奉仕と言う事にもなってくるんでございますけれどもです。ね、同時に今度の造園によって一徳受けよう、今度の御造営によって一徳受けようと言った様な事をこう申しますけれども、確かにそれは、有ると私は思う。
 ね、これこれと決めて、これこれの事に取組む、どうも自分は10本とは、ちと多過ぎるけれども、今のところじゃそうはいけんけれども、おすがりをして、そこんところを一生懸命その10本に、こぎつけた時にです、頂けるのが喜びです。
 しかもほんなら今も言う様に、誰がお供えしたくとも誰がそれに参加しなくともです、神様の計画だけは絶対成るんだと言う事。
 その成る中に、どれだけ私が食い込んで行けれるか、いや、せめて、せめてそう、これはね、まあ形とか金だけじゃないと思うんです。
 その思いなんです問題は、…ね、そのどれだけ強い思いが、どれだけそこの中にいわば浸透して行けるかと言う事。ね
 いわば、御用すれば助かると言うのはね、そう言う理がある、一生懸命の御用をさせてもらう、ね、それもですね、お互いの場合、お互い、て、私共今迄感じて来た御用ですねえ、もう御用、御用と言うて、もう、まるきり取り手の役人の様に、御用、御用と言われる、だから御用すりゃ助かると思うて一生懸命する、
 ところがね、神様のそう言う働きと言うか、神様のそう言う例えば、それを使いこなしなさると言うか、そう言う働きもあってないところに一生懸命御用するから、どうにもならん事になってくる。
 ね、いわゆる神と人とが一緒に共栄して行こうと言う働き、ね、いわゆる親にかかり子にかかりと言う働き、ね、氏子と神様が、もう一緒になって、…氏子がいくら頑張ったって、神様が後ろ向いて、ホケのごとしてござるならどうなるですか。
 そう言う事にいくら打込んだってダメだと言う事、こう言う御用ならダメだと言う事、…けれども神様もこちら向いてござる、私共もこちら向く、お互いにその向きあって…(「パチッ」と手を叩かれる。)……火花が散る様な働き合いと言うものがです。ね、御造営なり造園になり、植林になると言う事になる。ね 
 そう言う意味合いに於て私は間違いのないね、植木例えば苗木1本1本の上にもです、そう言う思いを込められて、お陰を頂かれたら皆さんが、お陰を受けられることだろうと私は信じます。
 ね、ですから、神様が立ち上がってござるなあ、ね、先日…先日じゃない、もう、どのくらいにらるでしょうか?う-む、もう半年も超えて、なるかもしれません。
 久留米の、前市長が見えられました。善導寺のゴハンダン?とここに見えられた、それで、今度新久留米の色々な計画をなされよる為に、ここに、いま山の上に車が通る様になって、この上に下りて来る様になる、ところがその大橋という所は、なんにもこの例えば観光する所がない。
 あ-あそこに、そのまあ、いうならば偉いお宮さんが立ちござる、金光様が立ちござると聞かれたのでございましょう。
 まだ、ここが立ち上がったばかり事でございましたので、しばらくの時間を割いてまあ見に来たと、言うておられましたが、見えてからのお話です、ね、ここを一つの観光ル-トにしたい、下りて来てからこう回って、そして、え-善導寺に寄る、いうなら、ここが一番初めの大橋という所に下りたいけれども、下りる所がない、ね、で、もし、そう言う事になったらです、例えば、こちらさんの方もですね、ル-トの中に入れてもいいだろうかと言う意味の事を話されました。
 まだまだ、これくらいのことで、ここを見に来るなんて。いうな事は、おかしいですけれどもです、ね、けれども、やはり昨日も洞海地区の方達が見えてから、本当に皆んな、ある意味合いに於てです、これは神様の働きによって出来たと言う事をね、もう皆んな、まあ、びっくりされて、又は感激をもって帰られましたんですけれどもです。
 けれども、ね、それが内外共に外から眺めさせて頂いても、ね、いわば、お道の信心の御比礼の一端としてでもです、ね、いわば、ここでも言う、私は実は思うておったんです。ここの家が、もう先の方に、少しゆとりが出来てから一つおかげ頂こう。
 そしてもう庭師でも、京都あたりの一流の庭師を呼んで、私は本当に、この地区の名園といわれる様な、その、これだけの広い庭がございますから、したいと言う願いを持っておった。
 ところが、その、そう言う方に、たまたま働きがあって、何処の造園師、どこの話を聞いても、私の、ここに、ぴたっと来るものがない、秋永先生が、どうも親先生の気に入る風な庭師はもうおらんと、こう言うとった、又居らなかった。
 ところが昨日、内山の社長が見えてから応接間でしばらくの間お話をさして頂いて、お話を聞かせて頂いて居る内にです、もう私の言う事が、先生そうなんですよ、それなんですよ、現在の、現代の造園は、それなんです、と言う訳です。
 内山さんが話されると、はあ、そげんなら私ももう貴方にお任せ出来る、私が出しゃばって、どうやこうや言う事はいらんですなあ、と言う様にですね、ぴったり合うものがある。
 ね、もういよいよこれは、そう言うお陰の中にですね、今度、ま立派なお庭が出来る事であろうと私は思います。それには、現在の造園はね、名石とか名木とか言う物は使わない、ここに一番感心してあるのは、到る所に杉が植えてある、もうこれは、どこに行っても、いいですなあ、この杉を生かさないけません、もう少し杉も植えたい、と言うて自分も植えておられますがです、私の例えば、私のいわば、好みとでも申しましょうか、その好みが現在の造園にぴったりしておると言う意味の事を、ま話を聞かて頂いて分からせてもらったのですけれどもね。
 そう言う庭がおそらく、そう言う理想的な庭がです、出来るであろう、これはまあ出来ると私は確信する。
 神様が思い立ちなさったんだから、ね、だからその思い立ちなさった中にです、私がどれだけの奉仕が出来得たかと言う事をです、一つ試してごらんになると言う、自分に10は多過ぎるけれども、ね兎に角、神様におすがりをさして頂いて、10…、20本は多過ぎるけれども20、ね、それに向かってです。ね、おすがりをさせて頂いて、それが出来上がって行く。
 そこに私は「悦びを創る」と頂いた事は、そう言う様な事で、喜びというものは創って行くものであり、同時に頂けるものであると言う風に思うのです。
 ね、今も申しました事を一つ間違いなしに、御用さえすれば助かるとか、御用さえすれば喜びが頂けると言うのじゃない、神様が働こうとしておられる、神様が思い立ちなさった。ところが神様だけでは、どうにも出来なさらん。
 そこに人間氏子の、いわば協力を求め給う、求め給う時に御用が出来なかったら、御用にならん。(この時、親先生、度々、手をパチパチと鳴らされる)
 ね、神様が立ち上んなさった時に、これに向かわなければ、御用にならん。
 御用すれば助かると言うのは、そう言う意味の御用すれば助かるなんです、ね、始められてから、この方もう、すばらしいタイミングです。
 昨日、行くと言うても、こげん早うから、あんた達、何ばしよるじゃろうかと思うて、皆んな客殿で、なんかこう会議をしよりました。
 それで、今日ねえごつのというたら、今日こんな事で内山に行くごとしとります。
 こげん早うから来んでん、あんた、ち、思いよった、それから御用がいよいよ終わってから、ここへもう今から行くと言うて、ここに正座して御祈念をさしてもらいよる所へ今、増改築のバスが到着したと言う知らせがあった。
 ま、そんな一寸あんた方が行くと思うとらんのを、あちらが沢山の人数だから、まあ、なんか御用になるかも分からんからと言うておったら、その、ここで私のお話を聞き終わられた後に、ね、ここを参観さして欲しい…6班でしたでしたかね、分かれてから、づう
っと、ここを参観して回られた。
 それから、菊栄会の、いわば、どんな説明でも出来る人達が全部を一人一人を受け持って、その各班を案内してここを回られたのです。
 ね、そう言う御用が終わってから行かれた、行かれた所に、いわゆる、その、社長がね、今度は西鉄の副社長が見えるんで、わざわざ電報が来たから、東京に居られて、わざわざ帰って今度は来られたんです。
 そして、その人の会合のあっておったらしいんですけれども、まあ、ここから来たから、もうあんまり、もう、うて合い、もされない様な状態だったけれども、それが帰られるのを送って出られるのと、今さっき程の話の様に、ぴったり秋永先生が会うた。
 秋永先生は、あちらの奥さんと同窓で、お友達かなんからしいんですよ。だから、秋永先生に、まあ話を聞かん訳にはいけない事になって、話を聞いて居る内にです、一肌脱ごうと言う気になられた訳なんです。
 それで、それを私が行きましょうと言う事になったんです、あちらの、その、専務である若社長が、そのう、若社長じゃない、息子さんが、の運転で昨日こちらえ見えて、それから午後から夕方まで、夕食の時間まで居られました。
 それで、も、内外共に、その庭を見られてから、こうしたらいい、ああしたらいい、と、そのヒントを与えて下さる事がすね、皆んながね、はあ-それは、えゝだろうなと、こう思う様な所を言うて下さるんです。
 もう、それは、おそらく見事になるだろうと思うんです、もう私は、あの昨日聞かせて頂いた、あの正面からですね、今の自転車置場があるでしょう。あの自転車置場がこちらの方に、この移って来ます。
 あの辺に、こんもりした森を作ると、こう言う、あの植樹の所の今の つゝじが植わっとる所は全部取ってしまう、そして、こうする、もう聞いただけで、はあ-、そらあ-素晴らしかろうと思う様な計画をですね、与えて下さったが、これとてもです、内山さんの頭から出て来たんじゃない、内山さんを通うして神様が、そう言う、素晴らしいヒントえを与えておられるんだと、私は思うたです。
 私の心に、ぴったり来るんですもの、ね、そう言う働きがあっておる、その働きに、私共が協力すると言う事が、御用だという亊なんです。
 その御用の中に、私が、どれだけ御用が出来るかと言う所をです。自分の信心としていかなければならない、そこに私は、ね、庭を作ると言う事と同時に、出来上がった時に、その同時に、ね、「悦びを創る」と言う、お陰と言うか、それが、そのまま御用によって一徳受けようと言うのは、そう言う「悦びを創って」行くと言う事を言うのではなかろうかと思うのでございます。
 どうぞ皆さん、しっかり、お陰を頂きなさいますように、お願い致します。
 ね、そしてお取次を頂いて、お願いせにゃ、今の私の方では、とても10本てん、とても、難しかけれども、どうでも10本だけ、お陰を頂き度いから、そこに思いもかけない、お繰合せを頂いてのです。
 お陰であるところに、いよいよ私は信心の有難いものを、頂かしていただく事が出来ると言う風に、私は思うのですうよね、
 どうぞよろしくお願い致します。

 皆さん、それからね、ここで今、正義先生が話しました。秋永先生が、お話をされました。ね、皆さんが本当に、はあっ、それは本当に皆さんご、苦労さまですと言うなら、あなた、ここの中に居る者が、皆んな割れる様な拍手をしなければ嘘ですよ。
 わたしゃ賛成しとら-んち言うた風に、思われて仕様がないじゃないですか、本当に…本当に、皆さんがご苦労様と思うなら、ほんな事に皆さんが割れるごと拍手がるあるに、応えでなからなならんと思う。ね、打てば響く様な、神様が立ち上んなさったら、私共も、おゝっと、応えなければ(パチッと手を叩かれる)
 信心をなんの為に日頃しておるか、と例えば、叫び度い様な思いがしました、私は御結界で、ね、拍手を私がしたら、バラバラと何人か居っただけじゃないですか、そんなこっちゃいかんです、ね、皆さんの信心をね、もう一遍一つ、その、見直して、ね、本当の御用と言う様な事に対しては、どう言う、その思いを以ておるのか、と言うものを検討してです、本当に神様が立ち上がんなさったところから、皆んなも一緒に立ち上がられると言う、お陰を頂かしてもろうて、神様の御計画のままに、御計画の通りのものが出来上がって行くと、そこを人に譲っては出来んと言う様な、私は、迫力がね、必要じゃないかと思うのです。                                 どうぞ